川島和正のプロフィール

株式会社インフォパブリッシング 代表取締役
株式会社セリングコンテンツ 取締役


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図解 働かないで年収5160万円稼ぐ方法 
文庫 働かないで年収5160万円稼ぐ方法 
確実に金持ちになる引き寄せの法則(監訳) 
医薬品業界とMRの仕事がわかる本

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■ 仙台生まれ

川島和正は1979年7月7日に
母の実家のあった仙台で生まれました。

それから、どんな生活をして育ってきたのかについて
こちらで公開(後悔?)したいと思います。


■ 生まれてから住んでいた家

私の実家は、4階だてのビルでした。

ビルとはいっても、
狭い敷地に無理やり建てた雑居ビルで、
各階1世帯(私の家、いとこの家、祖母&祖父の家)
+1階は貸し店舗だったので、とても狭い家でした。

私の家族が住んでいた
4階は42平方メートルくらいだったと思います。
ちょっと広いワンルームくらいですね。

そこに4人が住んでいたので、
かなり窮屈な狭い生活をしていました。

1970年代に建てられたにもかかわらず、
お風呂とトイレと洗面台が同じ部屋ですし、
布団を敷いたら足の踏み場も無くなるような状況です。

まあ、そんな家で
生まれた時から就職するまで生活していました。

狭い家で育ったためか、
私は、ずっと広い家に憧れていました。


■ 母の入院

生まれてから何があったか思い出してみると、
まず小さい頃にあった出来事は、母の入院です。

1歳〜2歳くらいの時の事なので
あまり記憶が無いのですが、
原因不明の病で母はしばらく(1年以上)入院していました。

あとで聞いた話では
診断ミスが繰り返されて、よくわからないまま
いろいろ手術を受けて、かなり大変だったようです。

母が入院していた頃の私は、
父や祖母、祖父に育てられました。

3階に住んでいたおばさんのところには
私と同い年の女の子(私のいとこ)がいましたので、
いっしょに遊ぶこともよくありました。

みんなが母に甘えている時期に
母がそばにいなかったことと、
近くにいた「いとこ」が女の子だった事もあってか、
子供の割には、わがままを言わない良い子に育ったようです。

ただ、その半面、
被害妄想があったり、コンプレックスがあった面もあると思います。
なにかとマイナス志向になるクセが、大人になるまでありました。

まあ振り返ってみると、
この頃の体験が今の私にあたえている
影響は結構あるんだなと思います。

今の私は、良くも悪くも
何でも自分でやろうとする方なのですが、
このころの影響で「しっかりしなきゃ」という気持ちがあるようです。


■ デブだった小学校低学年時代

実は私はデブでした。
小学校2年生で40キロくらいあったのです。

もちろん、運動が大の苦手で、
授業参観の日に一人だけ跳び箱を飛べずに大恥を書いた事があります。

みんなでドッジボールやキックベースをやっても
ダメダメで、同じチームになると嫌がられるほどでした。

しかも、算数や国語のテストの成績は良かったので、
ガリベンデブという印象で最悪でした。

(小さい頃から両親に「勉強しろ!勉強しろ!勉強しろ!」と言われ続けて、
 ゲームは1日1時間で育ったので、テストの点は良かったのです。)

小学校では運動ができる人が神で、
テストの点数が良いのは嫌がられるだけだったのです。

そんな状況で悩んでいたのですが、
当時の私なりに解決しようと思っていました。

そこで、当時の私なりに考えたのは、
「みんなの嫌がることをやる。」ということでした。

裕福でない家庭で育ったせいか、
みんなが嫌がる事を行うことが
苦ではなかったので、どんどんやりました。

今思うと小さい事ですが、
人気の無い係(かかり)をやったり、教室で前の方にすわったり、
友達の代わりに掃除をしたり、いろんなことをしていました。

はっきり行ってパシリのようですが、
いじめ問題は解決したので、満足していました。

今振り返ると、
「みんなの嫌がることをやる。」というのは、
パシリのようでイメージが悪いのですが、
様々な問題を解決する「良い手段」なんだなとつくづく思います。

今でも、困った事があれば、
「みんなのやりたくない事をやればいい。」と思っています。

営業マン時代にも、他の営業マンがやらない事を
いっぱいやっていたおかげで、
営業成績が良かったのだと思います。


■ 貧乏に気づき始めた小学校高学年時代

どこの家でも同じだと思うのですが、私の家でも
「お父さんは凄いんだぞ。立派なんだぞ。」と聞かされて育ちました。

そのため、当時小学生だった私は、
素直に「お父さんは余程凄い人なんだろう。」と思っていました。

しかし、友達の家に遊びに行くようになると、
自分より狭い家に住んでいる人がほとんどいないのです。

今思い出してみても、
うちより狭かったのは、母子家庭だったS君くらいです。

また、みんなは車の話を始める頃、
私は車のことがちんぷんかんぷんで困りました。

生まれてから一度も
家に車が無かった(乗った事もほとんど無かった)ので、
車というのは未知の世界なのです。

ここで、
あれ?うちは貧乏なのかな?と思うようになりました。
貧乏な暮らしをしていると気づかないのですが、
だれかと比べると気づくのです。

ただ、当時の私は
それほど困っていなかったので、
まあ良いかと思っていました。

貧乏で困ったのは中学時代ですので、
その話については、後ほどお伝えします。

ちなみに、
「冷凍食品は4割引の時に買う。」
「キャベツは100円以下の時に買う。」
「牛肉は100グラム100円以下の時に買う。」
「外食は年に2〜3回くらいで、一食1000円くらい。
 飲み物はもったいないので頼まない。」
というような生活を送っていた事を覚えています。

「高いもの=よほど品質が良くなければダメ、安いもの=素晴らしい」という
価値観がついたのはこの頃の影響です。
私は今でも、必要以上に高い商品があまり好きではありません。


■ 学歴が全てだと教えられた小学校高学年時代2

私の両親は教育に熱心で、
「とにかく誰よりも良い成績を獲れ!」と言われていました。

そして「一流大学に行かなければ、その後の人生で苦労する。」と
教え込まれました。

ようは、「人生で苦労しないように、一流大学に行きなさい。」と
小さい頃から、言われていたのです。
もしかしたら幼稚園の頃から言われているような気がします。

私は勉強をサボることより、両親にガミガミ言われる事が嫌だったので
結構勉強していました。

また、両親の教えにより1番になることが全てだと思っていました。
(性格悪いですね。)

この経験(というか親からの洗脳)は、良い面でも悪い面でも
現在に多大な影響を残しています。

まず、悪い面としては、偏見を持つようになったことです。
今でこそ、学歴がいい人が凄い人だとは思わなくなりましたが、
やはり数年前までは、学歴=凄いと思っていました。

良い面としては、
セルフイメージが高くなったことかと思います。

「何事でもやるからには上位になるまでやる」
と考えるようになっているので、
営業をやっても、アフィリエイトをやっても
トップの方まで行けるのだと思います。

(上位まで行く秘訣は、やり続ける事です。才能の要素は少ないと思います。)


■ お金が無さすぎた中学生時代

中学は男子校に行きました。
親の期待とは裏腹に、国立の進学校にいけなかったので、
私立の某男子校に行きました。

家にはお金が無かったのですが、
いろいろと借りる方法を駆使して通っていました。

(余談ですが、お金が無くても通える私立学校はたくさんあります。
 学費を全額貸してくれる学校もあります。  
 特に在学中にお金が払えなくなる人には寛容です。)

ただ、通うのは良いのですが、
みんながリッチだったので学校生活が大変でした。

例えば、部活の短パンやTシャツを買うのに
私は、ジーンズメイトの390円のものを買っていたのですが、
みんなはナイキやアディダスなどの5000円位のものを買っていました。

先生が自分の部屋の話をしていても、
クラスで私だけ自分の部屋を持っていなかったので、
とても恥ずかしい思いをしました。

お小遣いも、ぜんぜん違っていて
放課後や休日に遊ぶにしても、
一緒に遊べない事が多くありました。

たまに、マクドナルドに行ったりするのですが、
一人で水だけ飲んでいる事が多かったのです。
(私立で電車通学なので寄り道します。)


さらにつらかったのは洋服が買えない事です。
親からもらっていた洋服代は年間20000円だったので、
ぜんぜん買えないのです。

年間20000円って、
3ヶ月で5000円なので、これではぜんぜん買えないのですよ。
今みたいにユニクロもないですし。

そのため冬は寒くて死にそうになっていました。
正月でもTシャツの上にシャツをはおっていただけでした。

親の感覚としては、じゅうぶん買えると思っていたようですが、
思春期になると、あまりにダサい服は買う気がおきず、
結局買えなかったのです。

ただ、どうにかできないか調べまくった結果、
解決策がわかりました。
「フリーマーケットで買えば安い」ということです。

当時、フリーマーケットが全盛期だったので、
渋谷の東急文化会館の屋上や、
代々木公園でフリーマーケットが開催されていました。

そこで、私はフリーマーケットに通うようになりました。
フリーマーケットでは、
処分目的で100円くらいで
販売されているものが結構あったので、
いろいろなものを手に入れることができるようになったのです。

さらに、私はフリーマーケットで
相場より安い物を仕入れて、
翌週のフリーマーケットで売るようになりました。

はじめは100円で買った物を
500円くらいで売っていたのですが、
そのうち、裏原ブランドや501、ジョーダン5なども
売るようになり、やっと友達と同じ位に暮らせるようになったのです。

私が初めて商売したのは、この頃になると思います。
なお、本格的に売買していたのは高校生になってからです。


■ 計画が大失敗に終わった高校生時代

高校生になってからも、
毎週フリーマーケットに通って、
古着と裏原ブランドとスニーカーの売買を行っていました。

エアマックス95やアンダーカバー、APEの大ヒットで、
高校生にしては、ちょっと稼げるようになっていました。

ただ、学校の友達とは違う生活を送っていたので
あまり友達は多くなく、彼女も出来ず、
華やかとは言えない状態でした。

ちまたではカリスマ高校生が
大ブームだったにもかかわらず、
地味な骨董屋さんのような生活を送っていたのです。

そこで、また私は解決策を考える事になるのです。
「どうにか友達を増やす事はできないものか?彼女を作れないものか?」と。

そして、いろいろ考えた結果、DJをはじめる事にしました。
洋服の売買で、渋谷に行った時に見かける
シスコの袋を持っているお兄さんたちがかっこよかったので
DJにしようと思ったのです。

ただ、DJセットは20万円くらいして、
レコードは1枚1200円くらいしたので、
エアマックス95を売って手に入れた
お金はどんどん無くなっていきました。

しかも、DJをやる場所も無ければ、
パーティーを企画するほど友達も居ないので
結局、家に機材とレコードが放置されているだけでした。
DJで人気者になる計画は完全に失敗したのです。


■ なんとか復活した高校生時代2

そんな事をやりつつ、高校では
文化祭の美術担当責任者になりました。

実は、これは人気が無いポジションで、
みんなが断り続けた結果回ってきたものだったのですが、
私は喜んで引き受けました。
(みんなのやりたくない事はチャンスだと小学校の時に学んだからです。)

そこで、私は真面目に準備を進めた結果、
同じチームの人から少しだけ信頼を得ることが出来たのです。
(もしかしたら自己満足かもしれませんが、、、)

また、フリーマーケットのおかげでお金の交渉が得意だった私は、
予算もたくさん確保する事ができ、
結果としても大成功を修めました。

あとは、修学旅行の計画係りとか、卒業アルバムの係りとか
まあ誰もやりたがらない仕事をやったおかげで、
卒業する頃には、結構友達もできました。


■ 大学デビューに失敗した大学生時代

大学に入る時、私はいわゆる
「大学デビュー」計画を考えていました。
どうもイマイチぱっとしない人生を送っていたので、
一発大逆転しようと思っていたのです。

しかし、計画は見事に失敗しました。
まず、大学が地方国立大だったため、
サークルに人がいないのです。

横浜国立大というと眞鍋かをりのような可愛い子が
いるようなイメージがあるかもしれませんが、
可愛い子は、みんな慶応生に持っていかれてしまうのです。
地味な横国生は、ぜんぜん相手にされません。

そんなこんなで、大学はすっかりあきらめて
ぜんぜん行かなくなってしまいました。


■ 復活を試みた大学生時代2

次に考えたのが、クラブ(部活ではなくダンスクラブ)で活躍する事です。
高校時代からチェックしていたためか
レコードには詳しくなっていたので、
本格的にDJをはじめようと思ったです。

しかし、すぐには上手くいきません。
DJをするには
クラブイベントのオーガナイザーに
認めてもらわないといけないのですが、
実績も無く、友達も少ない私は、まったく相手にされないのです。

良いデモテープを作れば良いのかと思い、
必死に作ったのですが、
そんなものがあってもぜんぜんダメでした。

自分でイベントを主催する事も考えたのですが
一緒に始める友達も
遊びに来てくれる友達もぜんぜんいなかったので、
どうしようか悩みました。


でも、悩んでいても仕方ないと思ったので、
とりあえず出来る限りの事をやってみる事にしました。

自分の借りる事が出来そうなクラブに
片っ端から連絡して、安くて良い場所を探しました。
出演してくれそうなDJには、ガンガンFAXしました。

一生懸命行動すると熱意がつたわるみたいで、
安く貸してくれるクラブが出てきました。
また、憧れていた凄いDJからも
出演の許可をもらいました。

(あとで聞いた話によると、毎日FAXが送られてくるので、
 どんな奴か気になって出演してみたとのことです。)

まあ、そんなこんなで
クラブイベントを開催する事ができ、第1回目は大成功でした。

しかし、2回目に撃沈されます。
1回目で調子に乗った私は、
200人くらい入るクラブを借りたのですが
ぜんぜん、お客さんが来ないのです。

想定外のことで頭が真っ白になりました。
このままでは一晩で20万円近い赤字だと、、、
結局2回目はガラガラで、大失敗に終わりました。


その後、3回目以降は、
とにかく集客&エンタテイメント性だけを考えるようになりました。

今思うと、私のチラシ作りは、この頃から始まっています。

クラブというと、おしゃれなイメージだけというのが、
当時の定番だったのですが、
私はエンタテイメント性を追求して行き、
チラシでそのことをアピールするようになったのです。

はっきり言って邪道なので、
同じ音楽をやっている仲間や、
クラブからは嫌がられましたが、お客さんには大盛況でした。

休憩スペースにファミコンを置いたり、
面白いバンドを乱入させてみたり、無料でCDを配ってみたり、
いろいろとお客さんに喜んでもらえそうな事をした結果、
どんどん盛り上がっていったのです。

結局1年後には、渋谷のクラブASIAの週末枠を
使わせてもらえるようになり、
500人以上に来てもらえるようになりました。
各種音楽系雑誌はもちろんの事、
東京ウォーカーにも写真入りで掲載されるほどでした。

そんなこんなで、
大いに盛り上がっていたのですが、
2年間くらい続けていたら疲れてしまったので、
急遽止める事にしました。

まあ、このときのクラブイベント運営から得たものは
とても多かったです。
たくさんの仲間と、そして彼女が出来ました。

夜の怖い人たちに絡まれたり、
一晩で何十万も損したり、
大変な事もたくさんありましたが、
学ぶ事や得る事の方が多かったです。
今となっては全て良い思い出です。


■ レコード屋状態だった大学生時代3

自分が主催していたクラブイベントを止めてからは、
友達のイベントでDJをするくらいで、
本格的に音楽をやる事は無くなりました。

音楽で食べていくのは無理だなと思っていたので、
他のビジネスの事を考えていたのです。

その後は、とりあえず、レコードに詳しかったので、
中古レコード屋にレコードを仕入れに行って
オークションで販売していました。

また、海外のレコード屋からも
大量に仕入れてオークションで売っていました。

レコードを売っていると
アーティスト気質の人からは、
お前は音楽を食い物にするのか!などと怒られましたが
当時の私はまだ若かったので無視して売っていました。
(今は人の気持ちも考えるようになりました。)

これで、バイトするよりはたくさん稼げたのですが、
いろいろ考えた結果、
サラリーマンとして生活した方が
毎日安心して生活できると思い、就職する事にしました。


■ 就職活動

就職活動では、
「無名だけれど待遇が良さそうなところ。」と、
「残業が無いところ。」を中心に受けていきました。

仕事は最低限で趣味に生きようと思っていたので、
こんな選択基準だったのです。

とりあえず、英語が苦手だったので
英語のテストがあるところは落ちましたが、
それ以外は、ちょっと対策していったら
テストは大丈夫でした。

高校生の頃から本を読む習慣があったので、
対策本をいっぱい読んでいたのです。

続いて面接なのですが、面接では落ちまくりました。
面接のような、話す内容によって結果が変わる場に出ると、
ガチガチになってしまい、会話がままならないのです。

そんなこんなで準備していってもダメダメで
落ちまくっていたのです。

そんな中、
かなり軽い気持ちで受けた会社が、
「外資系製薬会社のN社」でした。

製薬会社なんて、ぜんぜん興味なかったのですが、
ビジネス誌「GQ」の外資系特集で
評価が高かったので試しに受けてみたのです。

ここでは、始めから意味不明な質問をされて、
適当に答えてしまったため、
もうダメかと思って開き直ったら、
面接官にたまたま気に入られて受かりました。

やっぱり左脳で会話するより、
右脳で会話した方が上手くいくんだなと思った経験でした。

最近の経験でも、だれかと会話する時には
無意識の方が上手く話せる気がします。


■ 会社の研修時代

私は、元々のんびり暮らすために
サラリーマンになったので、
偶然入った「外資系製薬会社のN社」でも、
超適当に過ごしていました。

はじめの3ヶ月は研修だったのですが、
午後6時以降は働かないと決めていたので、
テストの点は最悪でした。

しかも、「仕事なんて適当適当。」と言っていたので、
同期の真面目な人たちに、かなり敬遠されていました。

また、いわゆる優等生的な大学生活を送ってきた同期の友達とは
価値観が違いすぎて大変でした。

私はズケズケと物を言う方でしたし、
セクハラ発言も普通にしていたので、
さらに同期の人から避けられてしまったのです。

大学時代にそこそこ上手くいっていたので調子に乗っていた私ですが、
さすがに結構落ち込みました。
長い間、同じ会社で働いていくのに
こんなんじゃまずいなーと思っていました。

そんな時に、私にやさしくしてくれる友人に出会いました。
彼は、嫌われ者だった非常識な私のことでも大切にしてくれるのです。
いろいろと悩んでいた私は本当に救われました。

このときに私はやっと「他人にやさしくすること。」の大切さを
わかったような気がします。

小さい頃いじめられっ子だったので、
誰かをいじめたりする事はありませんでしたが、
逆に、やさしくする事や思いやる事もあまり無かったのです。

これ以降、私は誰に対しても結構やさしくなったと思います。
「そうは見えないよ。厳しいよ。」と言う人もいると思いますが、
意外とやさしいと自分では思っています。
やさしく振舞うのは苦手ですが、本質的にはやさしいはずです。

なお、同期とは、その後の研修で大分仲良くなれました。


■ 営業マン時代1

こんな風に、だれていたというか、
仕事を半分放棄していた私だったのですが、
営業現場に配属されて変わりました。

私が配属されたのは、
全国90箇所くらいある営業所のうち
全国1位の営業成績をおさめていた営業所でした。

ここに、怖い営業所長が待っていたのです。
この営業所長の得意な事は、
なんと営業成績の悪い社員を左遷することだったのです。

先輩に聞いた話では、
半年前に営業成績が一番悪かった人は、
九州の山奥に行ったとか、
その前に営業成績が悪かった人は、
「社内でも有名な左遷部署」に行ったとか、
とにかく強烈だったのです。

通常は所長クラスでは人事権が無いのですが、
特殊事情により人事権を持っていたため
どこにでも左遷する事ができたようです。

そんな所長に、
「ちゃんと働かないと、どうなるかわかってるんだろうな。」とか、
「とりあえず、同期の中では1番にならないと飛ばすぞ。」とか、
言われて、私は正直やばいと思いました。
そして、急に真面目な男に生まれ変わったのです。

人間は動物と同じで単純なもので、
ケツをたたかれると結構働くことが出来ます。
そうでない人もいるかもしれませんが、
少なくとも私はそうでした。

まあ、とは言っても、
入社1年目はお遊びのようなもので、
仕事と言えば「MR認定試験」という
製薬会社の営業をやるための資格取得対策が主な仕事でした。

そのため、試験対策を熱心に行い、
同期の中では最低だったのが、最高にまでなって、
無事資格を取得する事ができました。

そんなこんなで頑張っていたのですが、
その後、結局あっさりと
他の営業所に飛ばされてしまいます。


■ 営業マン時代2

新しい営業所に来てすぐに、
私は、その担当エリアが意味不明な状況である事に気づきました。

MRはルート営業なので、
基本的には定期訪問しなければならないのですが、
担当施設数がやたらと多く、
どう見ても他の人の2倍はあるのです。

それでいて、営業目標は異常に高い。
まったくもって意味不明で理不尽だと思いました。
前任者も、その前の担当者も退職しています。

ただ、私はまだ入社したばかりで
辞めるわけにもいかなかったので必死で働くことにしました。

左遷エリアだという事は薄々気づいていたので、
何としても見返してやろうと思ったのです。

営業マンとして、ど素人だった私なのですが、
ベストを尽くして営業成績を伸ばす事を決意しました。

まず、営業を本気で始めてわかったのは、
自分の能力の低さです。

営業をなめていた私は、
営業成績を伸ばす方法を全く知らなかったのです。
ちょっと本気になれば出来るだろうくらいに思っていました。

しかし、世の中そんなに甘くありません。
ぜんぜんダメでした。
おかげで私の始めての営業成績は全国最下位でした。

そんな最悪の状況から考えに考えて、
私がとった行動は、
とにかく営業に行く時間を最大化することと、
営業に関する本を読みまくることでした。

営業に行かない時間は
土日も含めて、とにかく本を読みまくっていました。
そして読んだ内容を、すぐに実践していったのです。

その結果、数ヵ月後から売上は爆発的に伸びて
一気に営業成績で上位になったのです。
だれもが達成不能と思っていたノルマを
達成したどころか、さらに上の成績を取る事に成功したのです。

ここで、私に営業の才能があったとか、
コミュニケーション能力に長けていたかというと、
そうではありません。

私に会えばわかると思うのですが、
口下手ですし、ぶっきらぼうで人付き合いが上手いとは言えないタイプです。

ただ、何がよかったのかというと、
読んだ本に書いてあった事を
必死にやり続けた事だと思います。

世の中で必死に何かに取り組んでいる人というのは
滅多にいませんので、
必死にやり続けるだけで、
多くの問題は解決できるのだと思います。


■ 営業マン時代3

必死に働いて営業成績がよくなったのはいいのですが、
その反動で、体調を崩したり、
仕事が以外の時間が全く無くなってしまったりと、
仕事以外の悩みができてきました。

そこで、また私は本を読んで
どうにか解決できないものかと調べました。

私は小さい頃から
本当に困る事が多かったせいか、
本を読んで解決しようとする習慣が身についています。

今思うと、これはとても良い習慣で
人生の多くの問題が解決できます。

自分の悩みというのは、
とても大きなもののように感じますし、
本当に気がめいってしまうくらいつらいこともあります。

ただ、そんな時に本を読むと、
世の中には自分よりもっと大変な状況にいる人がいることと、
そんな状況を乗り越えてきたノウハウがわかるのです。

話はそれましたが、
健康と時間管理についても
深い悩みを抱えていた私は、必死に本を読みました。
本以外にもインターネットで情報を集めました。
そして書いてある事を実践しました。

まあ、その結果、
自分の体調をコントロールできるようになり、
他の人よりも充実した気持ちで活動できる時間を
増やす事ができるようになりました。

この詳しい方法については
私の著書「非常識な勉強法」にまとめましたので
もし宜しければ見てみてください。

もしかしたら人生変わるかも知れません。


■ 医療関連ビジネスで独立

営業マンとして売れてくると、
また調子に乗ってくるもので、
「独立して自分で商品を売った方が儲かるのではないか。」
と思うようになりました。

折しも、ホリエモンブームで
起業家が注目されていて、
自分も起業したいと思うようになっていったのです。

そして、営業マンとして
築き上げた評価や信頼を全て捨てて、
医療機関専門ホームページ制作&医療広告研究
(医療広告総合研究所)として独立するのです。

独立した私は、
「さあ、ガンガン仕事を受注するぞ!」と
意気込んで、どんどん広告を出しました。

学べば何でも出来ると思っていた私は、
FAXDMを送れば、
ガンガン仕事を集めることが出来ると思っていたのです。

しかし、ふたを開けてみれば、
反応はゼロで、全く話にもなりませんでした。

広告を出すたびに、
貯金が減っていきました。
パンフレットを印刷したのに、全くの無駄でした。

この時ばかりは、本当にあせりました。
収入源の無い恐怖というのは、
この時に味わいました。

広告を出さなければ、
じわじわとしか貯金が減らないのですが、
広告を出さない限り収入も発生しないのです。
そのため、毎回かなりの不安を抱えながら
祈る気持ちで広告を出し続けました。

しかし、そんな祈る気持ちとは裏腹に、
みるみる貯金が減っていってしまいました。

「これではまずい。借金生活になってしまう。」
毎日、不安な気持ちで生活していた時に、
情報ビジネスに出合うのです。

情報ビジネスについて知った私は、
疑いながらも調べまくりました。
関連するメルマガや本を読んで学びました。


■ 情報ビジネスで救われる

ひととおり学んだ私は、
すぐにチャレンジしてみたのですが、
また失敗しました。
ぜんぜん利益にならないのです。

かなり期待していただけに
だいぶショックを受けました。
独立2ヶ月目にして、
もうサラリーマンにもどらないと駄目かと本気で思いました。

ただ、あきらめたくなかったので、
自分の手元にあった資料を見直して、
もう一度「何をすればいいのか」を良く考えました。

そして、情報商材を1日で作って売り出したのです。
2006年1月のことです。


すると、、、、


その売り出した情報商材は大ヒットしました。
一気に1日数万円売れるヒット商品になったのです。

これで私は救われました。
嬉しくて嬉しくて涙が出そうになりました。
苦しかった日々が嘘のように、幸せが込み上げてきました。


■ 医薬品業界の本を出版

製薬会社のMRとして働いていた私は、
MR向けの情報提供サイト「TOPMR.COM」を運営していました。
2005年春から始めたものです。

この「TOPMR.COM」の人気が次第に上がってきていたので、
本を出版しようと決意しました。
そして、私は出版社に企画書を送りました。

ビジネス書を出版している約20社に送ったところ、
2社から合格のお知らせをもらう事ができました。

そこで、私は条件の良いほうに決めて、本を書き始めました。
本を書くのは想像以上に大変です。
寿命が一年縮んだ気がしました。

そんなこんなで大変な思いをしたのですが、
なんとか出版する事ができました。
「医薬品業界とMRの仕事がわかる本」です。

全国の書店で売っていますので、
もし宜しければ見てみてください。

なお、出版したら
医療広告総合研究所をもう一度頑張ろうと思っていたのですが、
情報ビジネス&アフィリエイトの方が楽しいので、
医療広告総合研究所は本格的にプロモーションしていません。


■ 情報起業ノウハウを販売開始

情報ビジネスで救われた私は、
その後、いくつかの情報商材を作り、
毎月100万円以上の利益を確保するようになりました。

売れなかった商品も中にはありましたが、
短期間で多数の商品を作った結果、
継続的に売れる商品をいくつも作る事ができました。

そして、2006年5月には、
お金の悩みを抱えている人に
自分の救われた方法を伝えようと思い、
情報起業ノウハウ教材を販売開始いたしました。
7日間情報販売システム構築プログラムというものです。

この教材は、2006年5月の販売開始から12月の販売終了になるまで、
累計2700万円売れるヒット作品となりました。
また、インフォレビューといった外部の評価サイトでも、
多くの人から高く評価してもらうことができました。

(現在はリニューアルして最新版を販売中です。)


■ アフィリエイターとして実力を伸ばす

情報起業と並行して、アフィリエイトもはじめました。
メルマガアフィリエイト、サイト&ブログアフィリエイトの両方です。

メルマガアフィリエイトでは着実に実績を伸ばし、
始めてから半年後には毎月300万円稼げるようになりました。

平秀信主催IPSMMSアフィリエイトコンテスト1位
インフォトップアフィリエイト選手権初代チャンピオン
という賞をもらうこともできました。

サイト&ブログアフィリエイトでは、
ほったらかしで月30万円〜50万円の収入を確保する事に成功。
現在も時々更新する事で売上をさらに伸ばしています。

こんな私のアフィリエイトノウハウをセミナーでお話したところ
ご好評いただくことができましたので、
川島式アフィリエイトノウハウ(セミナー音声+マニュアル)として
販売する事になりました。


■ 「働かないで年収5160万円稼ぐ方法」を出版、28万部のベストセラーに

2007年5月に「働かないで年収5160万円稼ぐ方法」という本を出版しました。
この本は、自分の経験を元に書いた
副業&インターネットビジネスに関する本です 。

具体的には、なぜ副業を行うべきなのか?と
インターネットビジネス(オークション、アフィリエイト、情報ビジネス)で
稼ぐノウハウについて書きました 。

私自身の人生がインターネットビジネスで救われましたので、
より多くの人に伝えようと思い出版したところ、
シリーズ28万部のベストセラーになりました。

また、各種マスコミにも取り上げられ、
これまでに、週刊現代、ビッグトゥモロウ、夕刊フジ、ネットマネー、
頭で儲ける時代、宝島などに掲載されました。


■ 離婚する

ビジネス面では順調にいっていたのですが、
妻との関係では、ストレスを感じる事がかなり多くなっていました。

私は何事も解決できると思って、本を読んだり、
自分の行動を変えたりしたのですが、なかなか上手くいきません。

そこで、さらに調べて、いろんな選択肢を実践していくうちに、
お互いが相手の価値観を受け入れられず我慢しあって暮らすより、
それぞれが、もっと価値観のあう人と暮らすほうがいいのではないかと思えてきました。

多くの人は、学んで成長することが出来ますが、
その一方で、根本的な価値観はなかなか変えられなかったりするからです。

そうは言っても、理屈ですむ問題でもありませんので、
当時は悩みに悩みましたが、結論としては離婚することになりました。

離婚する時は様々な面で本当に大変でしたが、
今となっては離婚してよかったと思っています。

ちなみに、上記の理由は、私が思っていたことであり、
別れた妻は違うことを考えていたかもしれません。

離婚に関することは当事者にしかわからないといいますが、
当事者同士でもわからないことがあるものです。


■ コミュニケーション力をアップさせる

営業マン時代には毎日たくさんの人と会話をしていたのですが、
自宅でパソコンに向かって作業するようになってからは、
会話をする機会がかなり少なくなっていました。

そのため、会話をしようとしてもぎこちなく、
ビジネス面などで私に関心を持ってくださっている人以外とは、
イマイチ会話を盛り上げられなくなってしまいました。

しかし、そんな状況の中、離婚してしまったので、
出会いや恋愛にも取り組む必要がでてきました。

そこで、私は、コミュニケーションや恋愛関連のノウハウを学びました。
一流の男は、同性も異性も楽しませられる人だと知ったので、
どこで誰と会っても相手を満足させられるように学んだのです。

その結果、以前よりかなりレベルアップできて、
男女問わず、交流の幅がめちゃくちゃ広がりました。

ビジネス業界の友達だけではなく、いろんな仕事をしている友達や、
いろんな趣味をもっている友達ができるようになったのです。


■ ファッションや立ち振る舞いのレベルもアップ

コミュニケーション力を上げていってわかったのは、
会話内容だけでは超えられない壁があるということです。

やはり人気がある人と言うのは、人気がありすぎて全員と会話できないので、
まずルックスと立ち振る舞いを見て、会話するかどうか決めることが多いのです。

そこで、私は、ファッションや髪型を研究して、
アパレル関係者と思われるくらいまでファッションを整えることにしました。
また、洋服が似合うように、筋トレして肩幅を広げたりしました。

そして、それだけではなく、姿勢や表情にも気をつけたり、
動き方もなるべく意識して行動するようになりました。

その結果、各ジャンルで大人気の人や、ファッションや芸能関係の人にも、
喜んで受け入れてもらえる確率が大幅アップしました。

ファッションに気をつけるようになってわかったのは、
プロ級に気をつけている人がそもそも少ないので、
出来るようになってくると誰からも歓迎されるということです。

美人はチヤホヤされて得といいますが、
これは誰にでも出来ることなので、やらないと損だとつくづく思いました。


■ 2009年は年間24カ国を旅行

2008年11月にアメリカのセントルイスで開催された
ダン・ケネディのセミナーに行ったのをきっかけに、
2009年は毎月海外旅行をして人生経験を増やすことに決めました。

そして、実際に24カ国を旅してきました。
アメリカ、メキシコ、キューバ、ジャマイカ、
イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、ウクライナ
中国、台湾、韓国、タイ、カンボジア、シンガポール、マレーシア、インドネシア、
南アフリカ、ボツワナ、ザンビア、ジンバブエ、アラブ首長国連邦です。

記憶に残る毎日の連続で、本当に長い長い1年になりました。
日本で過ごす3年分〜5年分の経験をした気がします。

なお、旅をしてわかったこと第一位は、
「世の中は結局、金の亡者が強い。」ということです。

各国の政治や経済や歴史を学んだり、現地の人々の暮らしを見たところ、
とにかく金の亡者の行動力が凄すぎて、
普通の人は搾取され続けているだけという事がわかりました。

このことについて、詳しくはブログの記事に書きましたので、
もし宜しければ、ぜひ読んでみてください。

>ブログ記事「人命より金を大切にする人が勝っていく」


■ メールマガジンの部数が日本一に

2009年11月にはメールマガジンの部数が
ついに日本一になりました。

最大手のメルマガ発行スタンド「まぐまぐ!」で、
登録読者数が総合1位になったのです。

ツタヤなど会員制ビジネスのメールマガジンでは
もっと部数が多いものもありますが、
個人のメルマガとしては、日本で1番だと思われます。

>日本一になったメルマガ 「日刊インターネットビジネスニュース」


■ 日記ブログがアメブロオフィシャル芸能人有名人ブログに

2010年2月には、日記ブログが
アメブロオフィシャル芸能人有名人ブログになりました。

「だから何?」という話ではありますが、 ちょっと嬉しかったですね。

>アメブロ公式ブログ「ブログとメルマガで年収1億円稼ぐ川島和正の日記」


■ 最後に 

私は、ノウハウを学んで、実践することの繰り返しで、
以前は夢のまた夢だった生活を次々に手に入れることができました。

成功法則(著書の非常識な勉強法に記載)を知ることができてから、
ビジネス、恋愛、人生経験などなどすべての面において、
理想とする結果を得られるようになりました。

もちろん、時には失敗することもありましたが、
実被害はそれほど無いですし、今となってはいい思い出です。

そして今、私は今困っているに、
「私の救われた方法=各種ノウハウ」を伝える仕事をやっています。

ノウハウを知ることで人生を変えられるということは
本当に身を以て経験した事なので、
自信を持ってオススメできるからです。

まあ、こんなふうに好きな仕事をして、
豊かに暮らせるようになって本当に良かったと思います。

私の今までのプロフィールはこんなところです。
振り返ってみるといろいろとありましたが、全て良い思い出です。

長い文章になりましたが、
ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
どうぞ今度とも宜しくお願いいたします。


なお、会社を辞めて独立した2005年9月から
現在に至るまでの道のりは、ブログに詳しく掲載しておりますので、
もし宜しければ見てみてください。 mixiもどうぞ。

>川島和正の日記ブログ

>川島和正のmixi